*** 人生初の闘病生活3か月とその後 *** |
戻る |
@ *** 闘病生活とその後 *** 私が倒れたのが平成30年、年の押し迫った12月半ば、その少し前に胸が痛むので病院に行き 先生に訳を話したところ、レントゲンを撮ろうと言われ、でも肺に水が少し溜まっている程度でした 念のためCT検査を受けましょうとの事で別の病院でCT検査を受けることにし、その日はクスリを頂き 家路につきました、頂いた薬の名称が”ニトロ”それも先生がお守りに持っていなさいとよこしました。 どうも気になる、やはり心筋梗塞の前触れかと自分では思い数日後、確か日曜日の夕方気持ちが 悪くなりニトロを服用したがそのまま気を失いました。 数分後気が付いた時には救急車の中に寝ており、これで66歳人生の最後かと思いましたが、次に 気が付いた時は病院の手術台の上、何やら足の付け根辺りで医者が何かをしているようだ、痛みは 無いが手術台の上は寒くガタガタ震えるだけ、でも途中からおそらく自分でもカケーテルを心臓の血管に 通し何かをしていると察した。 5日間ほど入院、この間の記憶はほとんどありませんでした。 12月16日、妻が今から別の病院に行くよと先生に言われたことを私に言いましたが、どうして別の病院に 行かなければならないのかと?理由を聞くと、心臓から血液が漏れているようで、時間が無いから行こうよ ついでに直さないと困るよと、その言い方から言う事を聞くしか無いと思いました。 最初の病院で受けた手術は、心臓の血管のつまりを直すためにステントをいれたようでしたが、その後 心臓から血液が漏れ、この病院ではこれ以上の手術は無理のようで、もう一度救急車に乗る羽目に。 救急車に先生と妻が乗り静岡医療センターに向かいましたが、救急車が動き出すと同時に意識が無くなる。 到着後そのまま手術室に入ったようだが何も覚えていない。 後で聞いたところ時間は15時、手術が終わったのが22時のようだが何も記憶が無く、妻、息子、娘が 手術が終わるまで病院に居り、おそらくこれが最後だと思った事だろう?。 ******************夢の世界*********************** 意識が戻るまでの20日間、この20日間は夢の中でそれも夢の続きを毎回見るのである、ICUの部屋が 寒いせいか、冷凍車の氷の上に縛られて隣には大きなマグロが乗っており、沼津市街を移動しているのです。 どうして隣にマグロだろう?おそらく私の大好物なので隣にあったと思う、それにどうして沼津市街を冷凍車が 移動しているのか?多分娘が嫁いだ家が沼津なのでそれでかと思う。 夢の中の病院は神社が経営しているバンガローのような病室でベットに寝たままバンガローをトラックに乗せ 空港で貨物飛行機に、世界中を移動するのです、ある時寒いので窓の外を見ると雪山が見える、なんとスイス まで飛んで来たそこで料金を払う、私はスイスに行った事は無いのにどうしてスイスが出てくるのか??。 写真やテレビでマッターホルンを見た事はある、行ってみたいと思う事があったのかも知れない。 今日は神社に大事なお客が来るので、病室を神社の隅に移動された、船がそろそろ田子の浦湊に着くので 後少し待つように言われたがいつになっても迎えに来ないので看護婦さんを呼び、、そうそうこの病院の看護婦 さんは全員インドネシアの人達である、院長先生とインドネシアにも行った、夢とは便利に出来ている、こんなに 都合の良いものは無い。 看護婦さんと口喧嘩、この夢はここで終わる。 ここの院長先生は焼き肉屋も経営している、噂によると手術を失敗して亡くなった患者さんの体を焼肉にして 売るようだ、このままこの病院に居ないのが良いと思い逃げ出そうとするが脱走は無理だった。 この夢は夢でも良い気持ちはしなかった。 次は娘が出てくる、それもヤンキーの姿をしてこの沼津市街地を仕切っているのだ、寿司を売る店を数か所経営 している、素人の考えで安く売れば売れるとの考えだろう、どの店も安い。 この夢も私は寿司が好きなので夢の中まで出てきたのだろう、でも一度も食した事は無かった、おそらく手術後は 点滴だけで生きていたのだろう、たまには歯で噛むものを食したいと思ったのだろう。 今日は神社の売店に手伝いに行く日である、売店の横でアユを養殖していた、そのアユを捕まえ細い切り身に して串刺しに干すのだが、串に刺すときに”は、は、は”と気合を入れなさいと言われた、このときのどに痰の絡み があり、出しかたを看護婦さんが私に教えていたようで、このような夢になったのだろう。 私に話しかけた事がすべて夢になり夢の記憶が残っている。 神社の売店に母が訪ねて来る、30年以上前に亡くなっているのに、心配して夢の中に出て来たのだろう。 母はこの神社を気に入ったようだ。 神社はどこかの湖のほとりにあり移住環境の良い所なので、息子がこの近くに家を購入するので、そこから病院に 通えば良いと言うが、私はこの病院には通いたくない、そんな夢を見ているとき、母は居なくなりこの日の夢を 最後に出てこなくなった。 とにかく夢の中は寒いのである。 夢の場所が変わった、山梨県の52号線沿いの病院に居る、正確な場所は分からないが、52号線はドライブに 行くときよく車で通った道なのでそれで52号線が夢の場所になったことだろう。 私は何処かで保護されて山梨県の病院につれてこられたようだ、その為私の身元が分からないので廊下の隅の ベットに寝かされている。 看護婦さんに話を聞こうと声を掛けると、”うるさい私は今英語の勉強をしているの”夢とはこのような訳の分からない 事もたびたび湧いてくる。 これからテレビ局が来て、行方不明者捜索の番組に出ることになる、そして警察の車に乗り見覚えのある場所を探しに行く 事になり、テレビカメラを私に向けディレクターらしき人が私に”はーい暫く息を止めて”まるでレントゲンを撮ると同じ事を 言い、言われたとうりにしたがいつになっても楽にして下さいと言わない、そうこうしてるうちに苦しくなる。 のちに妻が”ICUを出るときに呼吸器を外し個室に戻って来たが、息をしなくなり慌てて呼吸器のあるICUに戻したようだ” との話をしてくれた、おそらく夢の中で息を止めたときがこの場面だろう。 高い所から富士吉田の浅間神社の参道を見ている、何もしていないただ下を見ているだけ、いつも見る夢と少し違う 自分があの世に行ってしまったのか?それだと夢を見ないはずだ、夢とはでたらめである。 まだまだ沢山の夢を見たがこの位にしておこう。 *************************************************** 大部屋に移り息子がちょうど休みが長く取れたらしく、妻を載せよく来てくれた。 娘は毎日のように病室に来てくれ、正月には孫が埼玉から見舞いに来てくれたらしいが、記憶は殆ど消えている。 記憶が残っているのは、1月10日辺りからだ、このころになると昼間少しでも寝ると、夢か現実か分からない 夢の世界に入ることもあった。 一番辛い時が来た、それはベットから起き上がることが出来ない、それと左腕が動かない、左足も自由に動かす事が 出来ない、心臓の手術後軽い脳梗塞になったようだ。 倒れる前に76Kgあった体重が58Kg、1か月で18Kgやせた、これでは起き上がることは出来るはずもない。 リハビリが始まった、最初はベットから起き上がり、車椅子に乗る練習を5日ほどでできるようになる。 次は車椅子から立ち上がり平行棒の間を右手でつかまりながら歩く練習、これが辛かったが、退院近くなるとどうにかできる ようになる。 退院の日が決まり、心臓血管外科の先生が富士宮市立病院に電話をして、私を強引に入院できるよう手配してくれる。 退院数日前から一日一日が長く感じ、早く退院日の1月22日にならないかと毎日思う。 退院の前の日が私の誕生日で67歳、幼稚園に行ってる孫二人が病室で歌ってくれた。 当日は先生方と看護師さん大勢で見送ってくれました。 ”お世話になりました。” 22日、朝9時前に静岡医療センターを介護タクシーで富士宮に向かう。 国立病院機構静岡医療センターはとても大きな病院で、駿東郡清水町にある。 https://shizuoka-mc.hosp.go.jp/section/cnt0_000044.html 10時過ぎに富士宮市立病院に着き、カケーテル手術をしてくれた女の先生が出迎えてくれた。 市立病院には心臓血管外科が無いので、循環器内科とリハビリテーション科にお世話になる。 1週間ほど過ぎたころ、生涯向き合わなければならない病名を告げられた、それは腎不全、このことは医療センターの先生 から、”心臓手術のとき腎臓に無理を掛けたので腎臓が弱っている”とはうかがっている、このことを市立病院の先生に 息子が言うが一向に耳を傾けてくれない、当然医療センターからもカルテが来ているはずだ???。 クレアチニンの数値が異常に高くなっているので、透析の準備に入ることとなる。 私は透析について詳しいことは知らない、腕に針を刺して血液を綺麗にする程度しか知らなかった。 いきなり透析はできない、最初に”シャント手術を受けるのだ、シャントとは手首の近くで、静脈と動脈を手術で繋ぎ 2週間ほどすると血管が太くなる、血管を太くしないと太い透析の針が刺せないようです。 この手術の説明のとき、妻は大反対をしたが私が納得をしていたのでその後何も言わなかったが、今になれば考える べきだったと思う、これについては後に詳しく書くつもりです。 週3回の透析とは別にリハビリも始まった。 足の筋肉が衰えているので、平行棒につかまりながら歩く練習、それと左腕と左手の訓練も始める。 1週間ほどで何とか歩けるようになるが、左腕とくに指を今までのように動かす事はまだ時間がかかりそうだ、十代のころ エレキギターをやっていたが、これではギターを触ることはとても無理だろう、妻が”もう一度ギターを始めれば”と言って くれるが、やってみようとは思わない。 中学生の時からの大親友二人がお見舞いに2回来てくれ、時間のたつのも忘れて夕方まで話が弾んだ。 今回3つの大病を患ったが、40代のごろの行いが一度に出てきた、毎晩のように付き合いで飲み、好きなものばかり食べる、 帰りは決まって代行運転だった。 自業自得である。 リハビリもかなり進んできたが、このときから食事が透析食になる、これがまずいなんてものじゃない、今まで濃い味の ものばかり食べていたせいかとても食べることが出来ない、そのせいか好きだった肉が嫌いになり体重も55、5Kgまで 下がり皆が心配してくれる。 リハビリも順調に進んでいるので、先生に退院日を3月17日と自分で決めお願いする。 リハビリの先生もそれに合わせ指導してくれた。 透析は、東名富士クリニックを紹介される。(透析患者が300人ほど居るようだ) 平成31年3月17日、待ちに待った退院日だ、朝9時前に妻と息子が迎えに来る、ナースセンターに挨拶に行くが日曜日 なので一人しかいない、私が居た3階は退院まじかの人が多く、看護婦さんが少ない階だ、見送りもない。 3ヶ月の入院はとても長かった。 退院の日には娘が家に孫を連れて来たが、私が退院したことを孫に内緒にしていたようで、私を見るなり目を丸くした。 退院後、食する量が極端に少なくなり、病気前の1/4ほど食べると満腹になる。 退院1週間後また災難が。 歩行がまだ完全ではないのに外を歩き、つまずいて転び頭を切る、妻が大慌てで私を市立病院に連れて行くが紹介状が 無いとだめだと断られる、皆が言うように市立病院は昔とはすっかり変わった。 仕方ないので他の開業医に行き数針縫ってもらう。 5月の浅間大社のお祭りに、行きつけの寿司屋に息子と二人で飲みに行くと、板さんと女将が私を見るなり唖然とした、 無理もない、太り気味の私がやせこけたからだろう、事情を説明、久しぶりにいつものように最初は生ビール、次はお酒、 でも以前のように量は進まない、楽しみにしていた握りを頼むが以前の美味しさが無い、何を握ってもらってもみな同じ、 食がこんなにも変わるのかとは思わなかった。 A 話が少し前に戻る、3月19日紹介頂いた東名富士クリニックから車で迎えに来た。 このクリニックは送迎をしてくれる、玄関先まで来てくれるので助かる、私は火、木、土曜日の午後からで時間は4時間 この4時間が凄く長く感じるのです、テレビが各ベッドに1台あるが、それでも飽きてしまう、これが一生続くのかと思うと いやになる、あの世に行った方が気が楽になるなと考えてしまう。 クリニックに着くと私より年配の人がほとんどである、最初に体重を計り指定されたベッドに行く、看護婦さんが血圧計 を腕に巻く、これは透析が終わるまで外せない、1時間ごとに血圧を測るのだ、透析中は心臓に負担がかかるようで 私は血圧が上90下が50近辺だ、終わったとき上120ほどの正常になる。 決められた体重(ドライウエート)があり、オーバーした分血液から水を抜かれるのであるが、私は納得出来ない事がある B それは体重が増加するのは全て血液に水が溜まるからなのか???それなら溜まった水を抜けば良いが、筋肉等の 増加でも増えた体重全て水のせいにしてはおかしいと思う、血液中の水分増加と筋肉増加の判断は出来ないものか? それと食事等でドライウエートを一定に保つのは難しいと思う。 腎臓が悪くなると、今まで出ていたおしっこが出なくなり、その水分が血液に混ざり透析で水を抜くようだ。 友人も透析をしており、”2年もすると完全におしっこが出なくなるよ”と言われたので2年後どうなるか確認したい。 もう一つ、透析中に足がつる事がたびたびある、私はほとんど我慢してしまうが、家に帰ってからつる事もあり、いやな ものだ、どうして足がつるのか私には分からない???。(Kさんから説明を聞いたような記憶がある。) つい最近透析後、ベッドから降りようとしたとき足がつり立てなくなる、看護婦さんに”ガンバレ〜”と言われるがこんなに 痛くなるのは初めてである。(K看護婦さ〜〜ん、ガンバレの掛け声だけでは痛みは治らないよ〜〜。) どうして急いで透析をするようになったのか???、腎臓の状態を見るのに血液検査でクレアチニンの数値を調べる ようで、その時の数値が5、5?単位は分からない。 すぐに透析を始めましょうとの事、後に分かった事だが、8以上になると透析を始めるようだ、事前に調べておくべきだ。 心臓手術で”腎臓に負担がかかり弱っている”と医療センターの先生の言葉を聞き入れて頂き、透析を遅らせる事が 出来たと思う、現在は正常におしっこが出ている状態である、それとも後に何も出なくなるのか???。 透析中テレビばかり見ていても時間が長く感じ飽きるので、ウオークマンで音楽を聴こうと準備する。 またまた大病が見つかる。 平成31年12月、心臓手術から1年経過したので、CT検査を富士聖霊病院にお願いする、何と大動脈瘤が見つかった 今まで腹筋運動などをやっていたが、腹部に力を入れないことと、血圧を130以下に、それとたばこも吸わないようにと 言われる、私は20年ほど前にたばこは止め、血圧はおよそ上115程なので安心はしているが、いつ大動脈破裂か 気になる、その時は人生諦めるしかないだろう。 C 退院初夏のころ自分でも分からない事が、散歩に行くと言い家を出て夢中で歩く、どことなくイオンモールに向かって 歩くが何も疲れない、イオンモールに着いた、距離は1、2〜3Km程と思うが疲れないのだ、そのまま富士宮駅まで歩くが まだ疲れない、次は神田通りに出て西富士宮駅まで歩くが何も疲れないのだ西富士宮駅から第3中学校まで、そして 家に近くなった所で妻が迎えに来ていた、歩いた距離は3Kmほどと思う。 退院後、毎朝薬を沢山飲用しているのでそのためか??、このような状態が半月ほど続く。 元気な時は田貫湖を1周歩きに行ったことがある、その思いが頭に残っていたのか、まだ足の運びが十分でないのに 無意識に歩いたようだ、リハビリは神経と関係あるのか??。 早く元気になり、以前のように田貫湖のホテルでランチ、そして湖を1周歩きに行きたいものだ。 D 早く足が元に戻るように毎日近所を歩く、日に々足が強くなるのが分かる、雨の日は滑ると危険なので止められる 私の家は白尾山公園の近くで、とにかく坂が多い、足の運動には良い所と思っている。 何月か忘れた、ケアマネージャーさんが来る、この時現在のリハビリテーションの”リマインドを紹介される、一度 見学に行くと、ほとんどの人が歩くのに不住している、中には手助けが無いと歩くことができない人、年が私より 10歳以上の人がほとんどだ、私は足は正常に歩行が出来るので、左腕左指の機能訓練を受けることにした。 E 数日後リマインドからお迎えに来る、東名富士クリニックも玄関先まで迎えに来てくれるので助かる。 現在は自分の車で運転して行けるのだが、皆がお迎えが安全で良いと言う。 初めてリハビリに行く、スタッフは全員若い人達だ、職種からして年配者がほとんどだろうと思っていたが、女性は全員 20代のようだ。(透析クリニックとは大分違う、、、、、?。) リハビリが始まる、10分間隔ほどで色んな事を指示され、疲れることがあるが楽しい疲れである、これなら長く続くと思うが たまに意地悪なことをされ、正常者でも難しい事を指示してくる、うまくできなくてイライラする私を見るのが楽しいようだ、 でもこれがリハビリだろう、3時間が長く感じない。 現在でも日記のように書き続けている最中に、ある病院の院長先生からメールを頂きました、先生は私の趣味と大いに 共通するところがあり、それは数年前に真空管ラジオの修理を依頼された事がある。 励ましの言葉に、長く続けることが大事だと記されていた。(”ありがとうございました。) ここで私の趣味について少し書いておこう。 中学1年生の頃から電気系が好きで、学校の勉強そっちのけでアマチュア無線の試験勉強をやっていた、同じくして 東京オリンピックが始まったとき、世の中大きく変化して行くときである。 古く壊れた真空管ラジオを探して来ては半田ゴテを持ち遊んでいた、それが現在まで続き、数年前にホームページ立上げ 全国から修理依頼が来るようになる、古いものは昭和10年代のラジオも依頼される。 昔は町の電機屋さんがやっていた事だが、今ではどこの電気屋さんも修理はやらない、国内では私と数人だけのようで 今でも趣味として遊んでいる。 修理依頼が来るだけではなく、全国から修理の仕方等お尋ねメールが来る、多いときは1日十数件あり、説明を書き 返信するのに夜12時過ぎまでかかることがある。 ***私の趣味の部屋で、一人しか入れない狭い所である。***ホームページ作成してるディスクです。*** F さて、話の続きはどこからだったかな、、、。 リハビリで左腕、指だけでは体に悪く、体全体の運動も少しやることにした、幸いスポーツジムのような機械があるので 自転車のペダルをこぐような機械で足の筋肉を鍛える。 最近体の動きは、リハビリや良く歩くので、歩行は正常、左腕も正常になるが、左指の動きが少し悪くラジオ修理に 以前より時間がかかるし、握力が右手の1/3以下である。(色男金と力はなかりけり、、???) 退院後家の2階まで階段を登れなかったが、現在は連続往復5回するのも楽になる。 書き忘れた事がある。 手術後に言語障害が少し残る、気にもならないほど軽いが周りの者に”話し方が少し変だよ”と言われ、友人にカラオケが 良いからと進められるが歌はあまり好きではない。(音楽を聴くのは大好きである。) G ホームページに写真を送ってくれる友人からメールがありまして、私が記した”看護婦”は現在の呼び方では”看護師”と なってますとのご説明でした、私はあえて今回の入院等で男性の看護師さんとお会いしておらず、文に暖か味を出したい ために”婦”と記しました事、ご理解下さい。 今年になって新型コロナの流行、順調に行ってたリハビリも一時休みになりました、スタッフの方達と冗談が言えるように なって来たところなのに、寂しい気持ちになる。 透析クリニックも患者さんが集まる所なので、コロナには十分注意をされているようだ。 H 13時過ぎに透析クリニックより迎えが来る、私のほか同じ区から後2人乗り3人でクリニックに向かう、到着は13時30分 過ぎ、他の患者さん達も数人いる、最初に体重を計る、そして透析ベッドに横になると看護婦さんが血圧計を腕に巻く、 体温の測定、テレビのセットをしてくれる、暫くすると技師が腕に太い針(爪楊枝より少し太いかな)を2本刺し機械に繋ぎ 透析が始まる訳です。 針が太いので刺すときに痛いと思いますが、1時間前に家で針を刺す箇所に麻酔薬のシールを貼っておくので、痛みは ほとんどありませんが、私の場合3時間ほど過ぎると針を刺した周りに重苦しい痛みがたまに出る事がある。 透析が終わり針を抜くのが4時間後、左腕全体がマヒしたように重く、暫く腕を曲げ伸ばしするとすっきりします、無理も ない、4時間腕を動かさないためであろう、帰りの患者さんはその日により違うので道順も違い、家に着くのが18時過ぎ 着くなり食事の支度ができている。 この様な時間が週3回あるが、透析を始めて1年過ぎ最近なれて来ましたが、たまに憂うつになり、つまらない事を 考えて??しまうことがあります。 (東名富士クリニックのスタッフ、看護婦さん達はみな優しく対応してくれます。) I 今日は朝から大動脈瘤その後の検査を受けるために、聖隷富士病院に行く。 受付を済ませ、これからCT検査、骨盤の位置から首までの断層を取るわけだが、このCTに横たわるのはいつ乗っても 良い気分にはなれない、痛み等は何も無くても病院の医療器械と言う物は、どうも好きになれないのだ。 午後検査結果が出た、先生の説明を受けると、以前造影剤を使ったCTの写真と比べると、大きさは変わらないとの事 なので、手術〜治療の必要はなく半年後に同じ検査をやり経過を見ましょうとの事で一安心した途端に腹がすき 手っ取り早く食べれる近くの回転ずし(浜寿司)に行く。 病気前(1年半前)に20皿ほど食べたが、今では5〜6皿で満腹になる、それも何を食べても旨く感じない、やはり以前 の味等が記憶にあるので店に足が向いてしまうようだ、それと好き嫌いが病気前とすっかり変わってしまった。 本日の透析でドライウエートが60Kgに上り、これで体が楽になるだろう。 先日神奈川県の院長先生より、”体重を元に戻そうとせず、20代ごろの体重を目標にすると良い”、とのアドバイスを頂き 今がその頃の体重なので維持したいと思う、体の動きも軽く調子が良く、膝にも負担が掛からないだろう。 J 本来先に書くものだが、この辺りで私の生い立ちを記したいと思う。 昭和27年に富士宮市上井出(かみいで)で生まれ、近くに白糸滝が有り毎日の遊び場でした。 小学2年の始めに転校、上井出を後に富士宮市街地に行く。 私の父は私が生後6か月の時亡くなる、当然記憶は何もなく小学6年まで親せきをたらい回しにされる、この昔話しをすると 皆に”苦労したね”と言われますが、私は子供ながら毎日が楽しい思い出ばかりだった、そのように思うようにしている。 中学1年から母親と住、この頃から電気に興味を持ち真空管ラジオで遊ぶようになる。 成人になり会社勤め、この富士地区は昔から製紙が盛んで当然鉄工所はどこも製紙機械に関係した所が多く、私は そのような会社に入社した。 仕事は溶接、旋盤等を仕込まれたが、40過ぎた辺りで社長の息子さんに、”コンピューターのプログラムを覚えたら”と 言われた、息子さんはプログラマーとかシステムエンジニアをしており、まだ若く現役バリバリの人でした。 コンピューターとパソコンは別の物である、コンピューターのプログラムは、C言語とかコボル言語等でプログラムを書き 40過ぎの私にはとてもついていく事は苦痛である、でもパソコンのプログラムならベーシック言語で十分に動くので 私はベーシック言語の勉強を始めた。 (皆が使っているパソコンのエクセル、ワード等のソフトはC+言語で作られている。) 私がパソコンを使い始めたのが1995年、いわゆるWindows95のときであるが、プログラムのことなど何も分からなかった。 プログラムでソフト制作を始めたのがWindows2000のとき、このころよりWindowsOSが頻繁に変わり、Windows7のとき プログラムに付いていけなくなり、パソコンはただの道具になった。 でもこの様な時代を通り過ぎてきたので、自作パソコンを使い良く組み立てたり、ホームページ立上げ等ができるのは 過去の自分に感謝である。 ホームページ立上げ後、毎晩メールのチェック、全国より修理お尋ねメールが有り、全国に知り合いが沢山でき、遠くは 北海道、沖縄まで、佐世保から車で遊びに来た友人もおりました、京都の友人は奥様と数回来られ、良い思い出が 残りました。 60で定年、それまで会社で機械設計もやっていたので、定年後家で設計の仕事を始めるが、平成30年暮れに 病気になり、人生が大きく変ってしまいました。 この様なごくありふれた時代を通り過ぎて来たが、振り返ると元に戻りたい時代も多々ある。 K 今日は天気が良いので妻と久しぶりに岩本山公園(富士市)へ行く、この公園はたまにウオーキングに行くことがある いつもの如くコンビニで昼ご飯を調達、車の中で食べ公園内をのんびり歩くのです、公園と言っても山の上なので、上り 坂が多く、脚の運動になる。 L 元気な時は山の頂上まで行く、頂上には展望台が有りその上から駿河湾、富士市街地、東名高速、180度反対を 見ると新東名、富士川の橋が見えて何度でも来たくなる所だ。 M 突然夜お腹と背中が痛くなる、我慢できないので息子に救急医療センターへ連れて行ってもらう、センターに21時 到着、コロナの関係か、最初にTELで先生の問診、暫くすると看護婦さんが車椅子で車まで迎えに来てくれた。 診察室に入るなり先生が、”小泉さんお久しぶりです”マスクをした先生の顔を見ると、以前私がお世話になりよく通院した 病院の先生で、私の事を覚えていてくれたようだ、このセンターは市内の病院の先生が夜間順番で来ているようです。 最初に心電図、これは異常無、次にエコーで腹部を診察、なんてことだ、、胆のうに石が写っている、いわゆる胆石である これ以上の検査は救急医療センターではできない、二日後消化器専門のクリニックに行き、後日エコー検査と念のため 胃カメラでの検査を進められ、今日は薬を頂き家に帰って来た。 これで一日に服用する薬の量が18粒になる、考えただけで嫌になるが仕方ない事だ。 心筋梗塞から始まり、心臓手術、腎臓病で透析、腹部大動脈瘤、今回の胆石と、これでもかと悪い所が見つかり嫌になるが 妻が”この際全部直さないと”と言ってくれる。 N 今日は日曜日、二日続けて透析を休めるのが日、月の二日間、今日はお天気が良く、ラジオ修理が一段落したので植木の 手入れでもしようと準備をする。 最近バラに興味を持ち、挿し木をして増やしている、病気前は仕方なしに植木の手入れやら草取りをしていたのだが、何故か 苦にならない、バラの花を見ているだけで心が和む、又色んな考え事も出来る、そうそう、病気前に修理済みラジオを山梨県の 清里まで届けたことがある、その方は東京の新宿にお住まいの方で、毎年5月になると清里の別荘に来られ、11月あたりまで 滞在されているようで、庭には数十本のバラが植えられている、見事なものだ、私はそれ以来バラが好きになり、趣味の一つ になったようだ。 家にお邪魔してバラの話に花が咲き時間の過ぎるのを忘れてしまった。(綺麗なバラにはトゲがある。皆さん気お付けましょう。) ご夫妻には毎年バラをバックにお二人の写真が写った綺麗な年賀状を頂きます。”ありがとうございます” 今年は沢山挿し木をしたので、夏の終わりに移植予定である。 もう一つの趣味が家庭菜園で、これは猫の額ほどの土地に気が向くままに種をまいたり、苗を植えたり気ままにやっている。 野菜の成長が日び変化したり、実が大きくなるのが楽しいものだ、スーパーで購入した方が安いのだが、自分で育てた野菜は 格別なものがある、それが趣味の醍醐味と思う。 O 今日は朝8時に家を出る、息子の運転で先日胆石の薬を頂いたクリニックに検査のため出かけた、8時30分に到着受付を 済ませ、9時にエコー検査、小さな石が無数にあることがわかる、その後胃カメラの検査である、私は初めてなので、看護婦さん から説明を聞く、麻酔をして鼻から入れるとの事。 いよいよ胃カメラ検査が始まる、看護婦さんが私の体の姿勢、その後麻酔の準備をする、鼻からゼリー状の麻酔液を流し込む そして口を開けのどの周りに麻酔液を霧状に吹きかけ、しばらくすると先生が胃カメラを鼻から入れ、初めてなので緊張するが 、看護婦さんが私の横にいて、一定のリズムで肩を軽く叩いてくれるので安心感がある。 カメラがのどまで入るのは分かったが後は何も感じなく、時折カメラの捜査するときのどの入り口がヒリヒリしただけである。 検査が終わり、先生から検査結果の説明を聞くと、異常無しでほっとした、1年に一度胃カメラ検査を進められ、胆石は薬で 溶かすようで、後日の受診でその後の結果が分かるようだ。 P 今日は毎年恒例の合同誕生会である、私、妻、息子、娘、孫4人が集まり全員で8人、3月〜6月生まれの誕生会である。 一番上の孫は26歳で、社会人のため大人の付き合いでたまに飲みに誘われる事もある。 Q 孫たちが大きくなるのは”あっ”と言う間だったが、それだけ自分も年を取ったとつくづく感じられ、40を過ぎた辺りから 時間の過ぎる速さは特に早く感じるが、それだけ充実していた時期と思う。 R 今日透析クリニックで月1度の血液検査の結果を知らされた、以前腎不全を知らされ、今後の食事等について、市立病院で妻息子 と3人で説明を聞いた、腎不全にはカリュウムとリンは特に注意するように言われた事を思い出す。 最初の内は妻が食事に注意をしてくれたが、血液検査結果が良好なので最近食事には注意することなく、塩分は気お付け後は 正常の人が食べるものと同じ物を食べるようにしている、カリュームを多く含む果物等は果物が好きな私は正常者の2〜3倍 食べている。 S 今日は透析の無い金曜日、年を取ると朝が早い、夜9時に寝ると朝2時には目が覚めてしまう。 6時半に朝食を済ませ、宮城県の方の修理依頼ラジオの続きを始めるが、手術後遠視が進み目が疲れる、それと配線の距離感も 悪くなるので、はんだ付けに時間がかかるようになってしまった。 毎月6台以上修理をしてたが、今では月2〜3台修理するのがやっとである、でも趣味としてやっているので焦ってはいない。 (修理依頼者様申し訳ありません。) 現在23時過ぎ、病気後の続きを書き、ホームページを更新、それと全国からメールを頂いた方がたにお礼の返信をする、今夜は寝るのが 24時を過ぎてしまいそうであるが、明日の透析中寝ていられるので苦にならない。 21 救急車で運ばれて1年半が過ぎた。 透析を受けている思い、透析クリニックの内容など落ち着いて見えるようになってきたので、少し書いてみよう。 それと透析患者の心境など最近考えるようになってきた、患者の年齢層では、私は若い位置にいるようだ、大半は75歳以上だろう 中には歩くことが出来ず、車椅子に乗せられて来る患者、気が付いたことは誰一人として自分で車椅子を動かしている患者はいない 理由が分からない、それと表情の無い患者ばかりだ、表情の無い患者は車椅子に乗せられている人だけでない、大半の人に表情が 無い、どうしてそのようになるのだろう、ただ生きていくだけのために透析を受けに来るからなのか?、その様な患者に声を掛けることすら 出来ない。 私が車椅子に乗せられ連れて来られるようになったときは、透析を辞める時と妻に言ってあり、妻は分かってくれた。 中には現役の患者もいるようで、、生き生きした顔をしている、見たからにすぐわかる、なので私は常に明るく振舞いたいと思う。 生きていくために週3回、何もせず腕に太い針を2本刺され、4時間じっと我慢しベッドに横になるのは良い気分では無い、私は毎回 この4時間を何とかしたいと考えるが、何も思いつかなく、自分でこの様な状態で今後生きていかなければならないのかと考えてしまう。 (これを読まれた皆さん、この様な時間の使い方に何か思う事がございましたら、メール下さい。) それと、透析」専門クリニックは普通の病院とは、雰囲気が大分違う、送迎の車から降りて、順番に体重測定し、決められた透析ベッドに 行くのである、この光景が流れ作業で、果たして人間が行うような事なのかといつも思う。 ベッドに横たわると、待ってましたと言わんばかりに看護婦さんが、これまた流れ作業で腕に血圧計を巻き、体温測定、その後に続き 技師が腕に針を刺して回る、これが流れ作業では無く、何て言うのか??。 それと最近気づいた事だが、看護婦さん(大半が40過ぎ)と技師さん(男でほとんど20代)達が、流れ作業が一段落すると、数人で ベッドの近くに集まり、大きな声で雑談が始まる、笑い声も凄い、患者の身になって考えた事などないのだろうか、これは患者にとって 気分の良い事では無い、それとも院長先生がスタッフのストレス発散のため許しているのだろうか???。 私は医療センター、富士聖隷病院、富士宮市立病院などに、入院通院経験があるが、看護婦さん達が集まり、大声で雑談、大笑い する光景を見た事など一度も無い、これではクリニックの品位が疑われる、それとも全国の透析クリニックでは当たり前の事なのか??。 やはり一般病院とは違う、看護婦さん、技師さん達も透析クリニック流に染まってしまったのか???。 ならば透析なんかしたくない、生きるために仕方なく来る患者、そこで看護婦さん技師さんのじゃれ合い、笑い等は止めて頂きたい。 透析患者は皆1級障害者で、交通機関、高速道路使用等が半額である、この様な特典があるのは有難い事だが、病気の無い健康の 体に戻りたいと患者は常に思っているはずだ。 22 本日透析の無い水曜日、左腕、指のリハビリが午後からあるが、透析に行く時の気持ちとは正反対で、気が向かないことは無い それは先に記した透析クリニックのスタッフとリハビリスタッフの気持ち人間性の違いだと感じる。 やはりリハビリに来る人達もほとんど私より年配の人が多く、中には片足片腕マヒの人が、その様な人達に接する姿だと感じる。 スタッフの年齢層は、女性20代、男性30代で若い、この若さで年配者への接し方はやはりそれなりの勉強等されていると思う いや勉強、訓練等だけで出来る事ではない、私が若いとき年配者に対し同じような事が出来たのか??”できなかった”接する姿 それらは幼少の時期より親から受けた教え、育ちの違いだろう。 私は今でもこの様な若い人達と話をするのは苦手である、でも彼らと話をしても何も違和感が無い、彼らは敬語は使わない、ごく普通の 話し方、でも自然と敬語の代わりをする言葉が私の耳に入ってくる。 リハビリ中にスタッフの笑い声、その笑い声は何もうるさく感じない、先の透析クリニックのスタッフの笑い声は自分達が楽しむ笑い でもリハビリスタッフの笑い声は患者を楽しませる笑いであり、リハビリ中スタッフ達が楽しむ笑いは聞こえてこない。 笑いも色んな場面で使うことがある、その場をよく考えるのが良いと思う。 23 金曜日は透析、リハビリが無く私にとって気の休まる日だ、退院後車の運転は控えていたが、早くなれるようにと最近時間を見て 運転するようにしている、今日は久しぶりに52号線を山梨方面に車を走らせた。 この道路はいつでも空いていて走りやすい、以前は気が向くと八ヶ岳クラブ(俳優の柳生博さん経営)とか、清里、野辺山周辺等に ドライブに行った、日帰りコースなので、それを目標に運転をしている。 10時前に家を出て15分ほどで山梨県との県境、11時前に南部町の道の駅に着く、平日だが人は大勢いる、コーンと桃等購入 昼には少し早いが食堂へ入る、海の無い県にしてはメニューを見ると海鮮丼がある、写真を見ると旨そうなので注文する、どうして ここまで来て海鮮丼??それは私のお腹が決めた事、今まで食べた中ではかなり旨かった。 もう少し足を運んで早川経由で本栖湖に向かい、朝霧高原経由で帰ろうと思うが、今日はこの位にして家路に向かった。 少し前にバラの話をしたが、そのすぐ後清里の別荘の方より、庭に咲いたバラの写真を頂いた、この梅雨の合間を見て、バラを 見に来て下さいとの事、是非とも行きたいと思う、清里は此方より気温が低いので、バラの花が最も綺麗な時期だろう。 今年は沢山バラの挿し木をした、ちょうど梅雨の時期で順調に枯れずに育っている。 天気の良いときに、狭い庭だが土づくりをしなければならないが、退院後の私は体力が落ち、疲れるのが早くなった。 24 月曜日、今日は以前より予定してた静岡の義兄の新盆があるる、静岡市のお盆は7月なので早めに出かける事にする、私の 運転では危ないと思うのか、息子が運転をして富士川サービスエリアより入る、家から富士川サービスエリアまで10分ほど 信号が少なく便利である、途中富士川に新しい橋(仮名、新新富士川橋)の工事が始まっており、後少しで完成のようだ。 清水ジャンクションで新東名に移る、新東名は直線が多く、道も綺麗だ、新静岡インターで降りる、家から40分ほどで着いた 先に食事(福一)を済ませ墓詣りをする、墓は小高い山の斜面にあり足の弱い者には苦になる、生前義兄が低い所に墓を移し たいと言っていた事を思い浮かべるが、義兄は墓の中に入ってしまったので、その必要が無くなった。 25 墓参りの帰りに義兄の家に寄る、義姉(妻の姉)さんが一人で大きな家に、義兄さんが無くなり日も浅いので、食事が進ま ないのか、以前より痩せていた、無理もない、妻が励まし又趣味でもやるようにと言った。 帰りは来た道を戻る形で家に向かう。 26 ***ガラ携からスマホに*** 透析から帰ると新しいスマホ2つが充電器に刺してある、息子がスマホに変えてくれたようだ。 ピンク色が妻の、私のはグレーである、私はスマホは初めてなので使い方を教わるが、パソコン歴が25年以上あるので、さほど 難しくは感じない、むしろパソコンより操作が間際らしく感じた、第一に画面が小さすぎる、タイピング速度がパソコンのキーボード に比べると断然遅く、イライラする、やはり1本指でタイプするより、10本指の方がはるかに速い、こればかりはしょうがないだろう 最近の私は左指が思うように動かなく、タイピングは右手5本指の使用だが、それでもパソコンのキーボードに馴染んでいるので 断然早く文書が仕上がる。 それと画面が小さいので、上下左右に動かすのも面倒である、でもこれが今若者に人気がある”スマホ”だろう、スマホとパソコン は別の物と考えないといけない、両者比べるのがおかしいのかな。 27 今日透析の時に、8月よりベットが変わることを告げられた、私は現在の透析クリニックに来て、1年4か月ほどたつ、その間に ベットの変更が5回ほどあった、どうしてこんなにも変わるのだろうか??、自分のエリアの看護婦さん達も全て違う人になる 名前も覚えて、気楽に話が出来るようになった矢先に、別の看護婦さん達と変わるので、嫌な感じがする。 おそらくスタッフの仕事が楽になるように変えると思うが、患者の気持ちなど一切無視である、私が以前より感じた事だけど 透析病院は他の病院と雰囲気その他が全然違う、全部が流れ作業で早く終わらせる事が主の様だ、スタッフはその様な事は 当たり前に思っているのだろう。 きつい書き方になるが、透析患者は病気を治すために通院しているのではなく、死なないように通院している、なのでスタッフの 考え方が他の病院と自然に違って来るのだろう。 28 この闘病記を書く筆から大分遠ざかっていた。 今年の夏は暑く家で横になる時間が増えた、病気前は体力が有りこの程度の暑さは何ともなかったのだが、外で草取りを30分 ほどやるだけで疲れてしまう、妻に”止めな”と口うるさく言われるが、どうも性分で自分の決めた範囲を終わらせないと気が すまなくやってしまう、やっとのこと終わらせ家に入るとぐったりと横になり、これで良いのかと考えてしまう。 夜、友人よりメールが届く、今月の初めに入院したようなので、退院したら合う約束のメールを入れておいたその返信である 55年前からの友人で、私の入院中に見舞いに来てくれた事もあり、近々3人で会う約束をした。 29 彼岸も終わり久しぶりに妻と車で近くの沼久保公園に出かける、以前聞いた話で彼岸花(マンジュシャゲ)が沢山咲いているとの 話しを思い出し、一度見に行きたいと思っていた。 蓬莱橋の手前を左に降りて行くと右側一面に咲いている、良くしたもので毎年彼岸の時期に咲く、それで彼岸花と名が付いた ようだ、中には白い花も咲いてとても綺麗だ。 先日友人と約束をした日が来た、私の家まで車で迎えに来てくれ、集合場所の”スシロウ”に行く、もう一人の友人は直接車で 来た、どうしてスシロウになったのか、私達3人は殆どお酒を飲まない、その理由は3人とも病院通い、それに一人は昔から酒類 はだめである、それが理由であるが、正直なところ私はたまにビール大ジョッキ3杯に日本酒少々は頂くことがある。 目的は久しぶりに話をすることであるが、ノンアルコールのビールで乾杯。 いつもの通り後半は病気の話になる、我々3人は中学2年生の時からの付き合いで、現在は68歳無理もない。 2時間ほどスシロウに、その後近くの喫茶店”レモン”でコーヒーを、そして次回忘年会の約束をしてお開きにした。 31 今日は令和2年9月30日、今月最後のリハビリが終わり、家に帰ると久しぶりにホームページの更新を、現在ホームページに アップしてある写真は9000枚以上になり、整理が大変になる。 32 2週間ぶりパソコンに向かいキーを打つ、病気前は10本指で打っていたが今は片手5本指、当然キーイングが遅くなりイライラ することが暫し、私はローマ字入力なので日本語入力の倍キーを打たなければならない、最近日本語入力を覚えようかと 思うが、今この年になってからではと考えてしまう。 土曜日、透析に行くとベッドに院長先生と主任さんが来て、今まで週3回の透析だが、今後週2回にしましょうと、私の希望を 聞き入れてくれた、それは2週間週2回の血液検査の結果が、週3回の時と同じで状態は良いとの事であるのが理由でした。 これで気持ちが非常に楽になった。 33 11月5日、久しぶりに妻と散歩をかね浅間大社に出かけることに、透析が週2日になり気が楽に、体調も以前より良い。 妻が”富士山世界遺産センターに行った事が無い”と言うので寄り道をする、センターの入り口にある裾野桜、驚いたことに 花が満開である、まだ11月なので早咲きではなく、遅咲きとでも言うのか写真を1枚、遺産センターの建物が引き立つ。 食べているので食べ飽きたのだろう。 浅間大社に到着、ちょうど菊の展示がしてあり、とても綺麗である、生け花も沢山ありその中に、妻の弟の嫁さんの生け花が あった、たしか若いころより生け花をたしなんでいたと思う、とても綺麗にいけてある。 このパン屋さんは、私が小学校のときからある老舗で、市内の学校給食のパンも作っている、最近では喫茶も隣に 有り、時代の流れに乗っている。 パンと紅茶で休憩を、少し前までは、コーヒーが好きなので飲んでいたが、コーヒーには”カリューム”が多く含まれる ようで、最近は飲まないようにしている、腎臓病にカリュームは良くないので気をつける。 14時に家に戻り、少し休憩、修理依頼のスピーカーの修理を始める。 34 久しぶりにキーボードに向き合う。 11月、動脈瘤その後の検査に富士聖霊病院へCT検査に行く、いつやってもCTの台に乗るのは嫌なものだ。 検査結果で何も変化が無いとのことで一安心したいところだが、肺に影があるので呼吸器科の先生に見て頂いて 下さいとの事、又別の病気か??、つくづく嫌になるが仕方ない、3日後の予約をして帰る。 3日後の予約日に呼吸器科の先生に、肺のCT画像で説明を聞く、大丈夫ですが半年後にもう一度見ましょうとの事だ、 心臓の検査と言う事でしたが、最初CTで腰から肩まで全部の画像が見れるので、半年に一度のCTで済んでしまう事は良い。 この日は、妻と息子が一緒に行ってくれ、帰りは食事をして家に向かう。 先日友人と忘年会の約束をしたが、暮れに来てコロナが大分流行して来たので、今年の忘年会は中止にする事になった。 12月に入り毎年恒例で、焼津魚センターに買い物に、息子が行ってくれる事になり、妻と3人で出かける。 運転は息子に頼み、富士川サービスエリアから東名高速に入る、家から丁度1時間で到着する、月曜日なのか高速道路は 大変交通量が少ない、魚センターに到着、日曜日など人混みで歩くのが大変なほどだが、あまり人がいない、コロナの関係も あるのだろうか。 先に毎年行っている店に行き、お歳暮の品を注文して出来るまでの間食事に行く、ここも毎年行っている店で、海鮮専門店、 私は海鮮丼を注文、大変美味しく、息子がご馳走してくれた。 35 1月28日、歳が明けて令和3年、病気後2年が過ぎる、”闘病記〜その後”を書く事にする。 正月は毎年同じで、娘と孫たちが集まって来る、みんなで食事、いつものパターンである。 週2回の透析になり毎日がゆったりしている、それだけ一日が充実して来たのだろう。 先日血液検査の結果を見て、一番気にしている血液の塩分量である、上限が6(単位は?)であるが、0,8とかなり低い 1年前は4ほど、でも月毎に下がって来て、もう少し塩分を取るようにと言われていた、自分では最近気にしないで、みそ汁、 漬物、梅干し等多めに食べている、思うに透析を始めたときより、おしっこが良く出るように、正常時と変わらないので、水も 日に2〜3リットル飲んでいる、クレアチニン値も月毎に下がっている。 透析を15年以上続けている友人に話をすると、まだ透析をやる状態では無いとの事、私が透析を始めた2年前、内科の 先生に、透析を早めに始めるのが良いと勧められたのが始まりである。 結果が良くなることを祈りつつ、このまま透析は続けるつもりでいる。 週1回のリハビリも順調である、足の動きはま〜正常で、病気前のように長い距離も歩けるようになったが、左指の動きが まだ少し悪いので、しばらくリハビリは続けたいと思う。 36 今日は火曜日、透析の送迎車が家まで迎えに来る、クリニックに到着ロビーに入ると、月一度のレントゲン検査がある でもその光景を見て驚いた、、十数人を一列に間を開けずに並ばせているのです、まるで開店前のパチンコ屋のようだ 現在コロナ感染予防のため、密にならないようにと指導されているはずなのに、患者をまるで家畜と同じ扱いしている 私は今回のレントゲン検査をパス、スタッフが、それでは来週やりましょうとの事でした、、、、、??。 送迎の小さな車にも6人乗り、窓は開けずに密閉、やはり時間のかかること、寒い事はやりたくないようだ。 ”患者も正常者と同じ人間と思うのは私だけなのかな” 37 桜の花がちり暑い夏の日が近づいて来た今日この頃、ラジオ修理も全国より来ているが、最近は以前修理を致した人からの 修理依頼が殆どである、病気前より修理ペースが1/3ほどになり、依頼者様にご迷惑をお掛けしている。 コロナは依然と猛威をふるっており、何時になるとマスクの要らない安心した世の中になるのだろうか、ニュースを聞くたびに ワクチン接種が日に々遅くなる、、、何時になるやら、、、?。 先日、京都の友人から朝取りしたタケノコが届いた、有名な産地の物で、あくが無く柔らかく大変美味しかった、今年初物、 富士宮市では毎年この時期に、タケノコ祭りを芝川町でやるのだが、コロナの関係で昨年同様、中止になるようだ。 38 気が向き久しぶりにキーボードに向かい書き始めた、と言うのは、またまた病気が見つかり、静岡市立病院を紹介頂いた 病名は肺腺癌の初期、自分でも嫌になるくらい次から次へと出てくる。 息子に付き添われ急行に乗り静岡に、受診する課は呼吸器内科、今後の事を先生に相談、まだ初期で小さく、放射線で 治療する事に決めた、通院は大変なので入院し透析もこの病院でやって頂く事にした。 前回入院のとき、他の患者さんのいびきが酷く、寝れなかった思いがあるので、息子が長い入院でないので、個室を頼んで くれた。 事前にPET検査とMRI検査をやり、転移していないかを調べる、PET検査は放射能液とブドウ糖液を静脈に入れ、ガン細胞は ブドウ糖を吸収するので、5ミリ程の小さなガンも発見出来るようだ、MRI検査では頭部の転移を調べる。 転移していない事が分かるや一安心。 39 6月14日(月)入院の日が来た、静岡市立静岡病院、駿府城公園の隣にある大きな病院で、部屋は10階公園が一望 出来る見晴らしの良い部屋である、広さは12畳以上あり一人で使用するのは贅沢だ、前回は4人部屋でいびきに悩んだ 事を思い出す。 2日めから看護婦さんによる検診、朝昼夕の3回と火曜日なので透析、今回この病院でお世話になる。 3日めは診察等何も無いので外出許可を頂き、2時間ほど駿府城公園に散歩に出かけると、公園内におでんの店があった 静岡名物の”静岡おでん”である、丁度12時なのでおでんを頂く、私好みの味で大変美味かった。 金曜日から放射線治療が始まる、初めての経験なので緊張するが、痛くも痒くもなく、治療は残り3回やれば終わる。 退院前日、オリンピックの聖火リレーが病室の窓から見えた、まさか退院前に見れるとは、良い思い出である。
40 私は色んな先生方に診察をして頂き、その都度今後の透析につきお聞き致しますが、どの先生方も答えを出して 頂けない、透析はこれ程疑問の多いことなのか??、私の知りたいことは暫く透析を止めたい事なのに、同じ回答は いつも、”透析学会で決められている”私よりはるかに重症の人が透析時間3時間30分、私は4時間なので、理由が 全く分からなく、これらの説明を求めても、透析学会で決められている、との理由にならない説明だけである。 今後ネットで色んな方のご質問をお聞き致したいと思います。 今日は胆石で薬を処方して頂いてるクリニックに行く日である、朝8時に息子に連れられ出かける 先生がエコーで診察、前回のエコー検査より時間が長い、私は胆石が大きくなっているのかと、診察の終わるのを まだか々と、やっと終わり先生の一言、”胆石が無くなっているネ〜”と、この様なうれしい言葉を聞くのは何年振り だろう、一安心致した、用心のため薬は後1年服用、それで再確認致し、終わりに致しましょうとの事でした。 41 今日は静岡病院に放射線治療後の結果を聞きに行く日である、急行に乗り3つ目の静岡駅で降り、タクシーで 5分ほどで到着、着くなりレントゲン検査、その後呼吸器内科、放射線科と行き結果を聞くと、正常になっている との事で安心する、次に来るのは6週間後、経過観察を進めて行くようだ。 42 暑い夏が終わり秋に突入、最近朝夕は寒く感じるようになって来た。 病院通いも間隔が長くなり、リハビリもあまり変化が無いので止めてしまった、後は自分で運動等やるようにと 言い聞かせ、気が向くと体を動かしている。 コロナワクチンは8月に2回目が終わり、インフルエンザワクチンの時期になる、これは透析クリニックで受ける事に。 ラジオ修理は9月お休み、10月より体と相談しながら気が向いた時にやるようにした、修理依頼者様にはご迷惑 かけしてしまった。 43 今日は令和4年3月7日、久しぶりにその後の体の状態を書きたいと思う。 3回目のワクチン接種の予約が取れ一安心である、何時になったら感染の心配が無い日が来るのだろうか?。 肺腺癌の放射線治療その後、治療後のレントゲンと現在のレントゲン結果は変化無く再発の心配は無いとの 先生より説明が有り安心である。 心臓の造影剤CTの結果も異状なく、3年後に同じ検査をとの事、大動脈瘤その後の状態は少し大きくなったが まだ様子見の状態との事、胆石は薬で綺麗に無くなっているので、薬をあと少し続けて終わりにするようだ。 沢山の病気で今、四つの病院にお世話になっている、これも生きていくには仕方の無い事だろう。 先日の申告に、医療費の領収書が沢山有り大変だったが、息子に手伝ってもらう、Eタックス申告は便利である。 43 今月は忙しく、聖霊富士病院等3か所に、どれも経過観察である。 同じ系列の透析クリニックが富士宮に出来、転院希望を出しておいた所OKとの事、今まで13Km離れた所から 4.5Kmの近い所なので、自分の車でも行くにも楽である。 最近透析患者が増えてきており、ある市会議員が議会で質問された事があるが、その後回答が無いままのようだ。 44 4月、3つの病院での検査は全て異常なし、一安心である。 今月から市内に出来た同系列の透析クリニックに行く事になり、始めての送迎車がお迎えに来てくれた、今まで 40分ほどの所、20分程で到着、透析ルームは2階なのでエレベーターで上がり、エレベーターのドアが開くなり 通路には白いランの花が沢山、やはり病院でも開院祝いに花を頂くようである。 何もかも新しく、気持ちの良いものである、ベッドも以前より柔らかく、リクライニングでベッド専用のテレビも付いており 4時間を過ごすわけだが、殆ど寝ている時間が多い。 8月に私の趣味の展示会をやる事になる、近くの公民館に場所を借りる話を聞きに行くが、狭くてとても無理である 他を探し富士宮市民文化会館の展示室に決まり、契約書、費用の支払いを済ませた。 展示室は広く、机椅子等も準備されているので楽である。 45 最近耳の聞こえが悪く気になるので耳鼻科に、60年前にお世話になった事がある協愛医院、昔扁桃腺で掛かる 先代の先生は軍医上がりで怖い思いがある、それに痛かった思いも未だに忘れづ記憶に残っている。 行ってみると昔とは違い医療設備が凄い、治療を受けても痛みは殆ど無く安心した、先生の説明では鼓膜の奥に 水が溜まりそれが原因で聞こえが悪いとの事なので、次回鼓膜を切り管を入れ水が抜けるようにとの説明である。 当日9時に治療室に入り綿のような物に麻酔液を付け耳の奥に15分ほど入れて置き鼓膜を切り管を入れる。 治療が終わると不思議なほど良く聞こえる、世の中こんなにも沢山の音があるのだと感じた。 今ではモニターに大きく写し出されるので、昔はこの様な施術は出来なかったでは無いだろうかと思う。 46 8月の展示会が終わり一段落でのんびりしておったが令和4年も後数日で終わる、来年1月で71歳歳の事を 考えると嫌になるが仕方ない事である。 毎年12月の終わりが近づくと年賀状を書く、書くと言うか私はエクセルでやるが日が無く毎度いい加減になる。 本日あと印刷するまでに出来上がる。 47 久しぶりに闘病記と思いパソコンに向かったが、退院後4年が過ぎ体の具合もほぼ普通に戻った、この4年間 妻に組合の集まりに行って頂いたが、今年度は班長をやる番なので私がこの機会にやる事にした。 ラジオの展示会後気が抜けて修理する台数も減り、中学生の時に興味を持ち免許を取ったアマチュア無線を 再開しようと思い、小さなアンテナでも出来る14メガヘルツに決めアンテナを上げることにした、北海道から九州 までは比較的楽に交信が出来るので、でも気が向いたときの作業なので何時になるかま〜のんびりと。 48 5月の連休に入り71歳を過ぎた今、ラジオ修理の休みをホームページに掲載お休みを頂き毎日をのんびり過ごす アマチュア無線の準備も気が向いた時に少し、展示会後気が抜けた毎日である。 老け込むにはまだ早い、何か集中出来る事が無いかと考えるが考えて何かがあるわけでは無く、これが老け込む 入り口かと思う。 70を過ぎたこの様な人達を見て何かやれば良いのにと思ったが、今自分がその人達と同じ立場になったと考える ようになった。 49 7月も半ばが過ぎると毎日30度越えて暑い、毎日がパソコンの前に座りエアコンのお世話に、体には良くないと 感じるがこのパターンで一日が終わる。 再開致したアマチュア無線も暑さで気が向かない、でも全国の年金受給者さん達の声を聞くのも楽しくたまに無線機の スイッチを入れると数十年前にお会いした人のコールサインが聞える。 近々無線局免許の更新が、今ではネットで出来るので便利だが時代の流れに付いて行くのがやっとだ。 50 令和6年2月27日21時、半年ぶり闘病記とその後を書くためにパソコンの前に。 先日介護保険の書き換えがあり市より担当者さんが来る、確か3年の期間が有ったが今回の更新では1年になる 体の具合が良くなったからだと思う、これもケアーマネイジャーさん関係者さんのおかげだ。 救急車で運ばれ6年が過ぎ病気前より体を大事にと思うようになって来た、毎晩のように代行運転で帰宅していた 時期が懐かしく思うが、それが原因で医療、関係者さんのお世話になり反省の気持ちが有る。 最近感じる事だが、明日はあれをやろうと思うが当日になると明日でも明後日でもと、気力が無くなる自分が 病気前と大きく変化しているのに最近気が付く、良くない事か??それとも歳のせいかと??。 3月で隣保班の班長が終わる、家内に出納長をお願いして私はその他プリントアウトして準備、1年があっと言う 間に過ぎた、28年前に町内会長を2年やった事を思い出す、その時は区長さんに大変お世話になった。 ご感想などをメールでお寄せ下さい、お待ち致しております。(S、小泉) メール fujisan3758@yahoo.co.jp *** 後日続きを記載致しますので、お待ちください。***
|